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2022年度指標聖句

小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。

                ルカの福音書12章32節

望みがあるのです

10日、合川教会の小原博牧師が一年ぶりに来られて、「空の器、神が満たす」と題して説教をされました。貧しい家にあった油の壺から、隣近所から借りて来た空の器に、次々と壺の容量以上の油が注がれました。無から有を生み出す全能の神の業に驚かされます。最近、二十歳そこそこの東大生でもある科学者が、空気から油を作り出したというニュースを耳にしました。エリシャもびっくりでしょう。

空気中の二酸化炭素から重油を作り出したそうです。将来的にはガソリンも作れるそうです。この技術が実用化されるなら、2030年からのガソリン車販売禁止も必要なくなります。まさか化石燃料を燃やして空気中に排出された二酸化炭素から、化石燃料と同等の燃料を作り出せるとは驚きです。究極の再生可能エネルギーです。

アメリカの研究者は二酸化炭素から、タンパク質を作り出したとも聞きます。これでパンを作れぼ食糧問題も解決出来るかも知れません。二酸化炭素は、カーボンゼロだけではなくハンガーゼロまで実現させるのです。五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させたイエス様もびっくりされるでしょうか。

神様が創造されたこの世界は循環する世界です。たとえば空から地に降った雨は水蒸気となって空に戻ります。二酸化炭素も循環するように、神様は設計をされていたのです。温暖化の原因だと二酸化炭素を悪者扱いをして来ました。でも、二酸化炭素は悪くはありません。二酸化炭素を循環させることを妨げてた人間が悪かったのです。

創造主である神様は、「地を従えて、生き物を支配せよ。」(創世記128節)と人間に命じています。神様ご人間を地球の支配者としました。しかし、神様が造られた被造物を悪者に仕立て上げて、自分の悪いことを認めないで、悪の上塗りをする暴君のように、被造物を支配し続けています。被造物のうめきの一つが温暖化ではないでしょうか。

それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。ローマ人への手紙820

被造物を人間に服従させたのは神様です。決して人間の力で地球の支配者になったのではないのです。この先も人間による酷い支配は続くでしょう。しかし、被造物を人間に服従させたのは神様だから、そこには間違いなく望みがあるのです。今、群れを牧しているのは長老会です。牧師や伝道師のように神学校で教育と訓練を受けた者ではありません。酷い牧会者です。でも、これも神様が任じたという一点に望みがあります。

失うときは、失うのだ

特別伝道礼拝は5日に行いました。その三日前、大分県別府市の教会で、新型コロナウイルス感染症のクラスターが発生したという報道がありました。家に帰ると由利本荘で大きなクラスターが発生して、本荘教会が礼拝を休止したという連絡もありました。特伝中止という選択肢もありました。

12日の大館教会とのオンラインでの礼拝では、説教中に配信が停止してしまいました。いつか起こるだろうと恐れていました。でも、具体的に対策を準備していませんでした。やはり何事も対策を準備しておく必要があると痛感しました。今後、日本のどこでもクラスターは起こる可能性があります。集まることを一時的に止める決断を下さざるを得ない状況も想定して、準備をしておく必要もあるでしょう。

集まることを一時的であっても止めることは、教会にとって苦渋の決断ではないでしょうか。ヤコブは年老いてから苦渋の決断を下しています。彼らの住むカナンは飢饉が続いていました。そこで十人の息子たちを食糧を買いにエジプトに行かせました。応対したエジプトの支配者から、息子たちは間者だと疑われて三日間拘留され、シメオンだけが捕縛され投獄されてしまいます。疑いを晴らしてシメオンを開放するには、同行しなかった末弟ベニヤミンを連れて行かなくてはなりません。


ところが、支払ったはずの代金が、買った食糧の袋の中に入っていました。シメオンを解放するために、エジプトに行けばどうなるでしょう。あらぬ疑いは深まり、ベニヤミンを連れて行っても、ベニヤミンまでも投獄されてしまうかも知れません。事の顛末を聞いたヤコブは恐れます。かつて獣に殺されたヨセフ、今回はシメオン、次はベニヤミンと三人の息子を失うことになると嘆いて。決断を先送りにしたのです。

やがて買った食糧も底をつきます。ヤコブは先送りした決断を迫られ、対策を講じて息子たちを送り出します。対策は、第一に息子を失わないために、カナンの地の産物をエジプトの支配者への贈り物とすること、第二に食糧を買うために、前回の未払金と今回の買付金の二倍の金額も準備したことでした。姑息な人間の手段でしかありませんが、教会の様々な対策も姑息な物でしかありません。そして、疑いを晴らすために、ベニヤミンを同行させました。彼は祈りの言葉を息子たちに述べます。神の憐れみを求めて、失われるかも知れない二人の息子の帰還を願い祈りました。その最後の言葉です。

「私も、失うときには、失うのだ。」創世記43章14節

諦めの境地のような言葉です。失いたくないという気持ちを諦めたのです。たとえ失っても自分の願った通りではなく、神様のみこころだけがなされるように祈ったのです。結果、ヤコブの決断と対策は祝されました。二人の息子は失われず、死んだと思っていたヨセフまで失われていなかったのです。神のなされることは、私たちの想像を遥かに超えて、人間の対策以上の祝福があるのです。御名を崇めます。

攻め取っていなかった

先聖日、二人の予期せぬ来会者がありました。一人は礼拝に出席されましたが、もう一人は礼拝前に来られました。会堂のカーテンを開けたら、いつの間にか車が教会の駐車場の入り口付近に停まっていました。嫌な予感がしました。遠くから見て秋田ナンバーでないことに気づきました。もしかして、お盆の休暇中ですから、他県のクリスチャンが来てしまったことを察しました。でも、昨今のコロナ感染状況で来るのか?と思いました。


埼玉県の方でした。恵泉キリスト教会埼京のぞみチャペルの播義也牧師です。夏季休暇を利用して、アジア・アクセス・ジャパンという宣教団体の活動で、青森に向かう途中でした。中に入れるつもりはなかったのですが、トイレを貸して欲しいと言うので、仕方なく中に入れました。更に会堂を見たいと言うので、会堂の中にも入っていただき、少し話しをして祈ってから、お引き取りしていただきました。コロナ禍でなかったら大歓迎なのですが、県外からの突然の来訪には冷たい対応をせざるを得ません。心苦しさを覚えました。


しかし、礼拝参加は許されないと認識していたはずです。彼にはどうしても立ち寄りたかった理由がありました。それは恵泉キリスト教会の茨城県の教会で、奉仕されている金野正樹牧師から、立ち寄ることを頼まれたようです。以前、金野牧師のことは友子姉から聞いたことがありました。二ツ井出身で、ここで救われた方です。友子姉同様にご存知の方もいるでしょう。上京されて、定年後に牧師になられたようです。


播牧師と短い語らいの中で、秋田県の感染者数の少なさについて意見が一致しました。他県より感染対策が優れている訳ではなく、閉鎖的な県民性が効果を発揮しているということです。これは宣教についても言えるのではないかと指摘されていました。その通りだなと思いました。士師記18章にシドン人のライシュという閉鎖的で孤立した町が登場します。この町はどうなったでしょうか。


イスラエルのダン族によって滅ばされました。ライシュは神が聖絶を命じた相続地ではありません。従って本来なら滅ぼされることの無かった町です。でも、閉鎖的で孤立した町は滅び易いのです。


ダン族は自分たちの相続地を得ようとしていました。まだ割り当て地を攻め取っていなかったからです。士師記181節(リビングバイブル)


ダン族は相続地を攻め取ることが出来ません。彼らの相続地にはホレブ人がいて、攻め込む余地が無かったのでしょう。でも、彼らが攻め込むのなら、神がそれを取らせて下さったに違いありません。何故なら神の約束の地であるからです。ところが、より組みやすい町を探し出して、ライシュを容易く攻略したのです。要するに神の約束を信じることが出来なかったのです。神の約束を信じていたら、閉鎖的な町は滅ぼされなかったはずです。そこにも滅びではなく救いが訪れたでしょう。私たちは神の約束を信じましょう。宣教と信仰生活も相続地を攻め取るような壮絶な戦いの日々であったとしても、神の約束を信じて立ち向かえば、間違いなく圧倒的な勝利者とされるでしょう。

うろこのような物

先聖日(18日)の宣教70周年記念礼拝は祝されました。でも、エアコンの対応力を上回る猛暑に、ひたすら耐える時間でもありました。この日に合わせるように、例年より早く梅雨が明けたからです。暑い日は続きます。熱中症対策を万全にして礼拝に臨んでいただきたいと思います。今年の梅雨は、静岡で大規模土石流という痛ましい災害もありました。今後は台風による災害が各地で起こると想定されます。日々の気象情報が気になります。


線状降水帯という気象用語を、天気予報などで聞くことがあります。温暖化に伴って、今まで聞きもしなかった現象が、数年前から突如現れたという印象を受けます。しかし、これまで起こった豪雨の気象データをスパーコンピュータで解析して、線状降水帯という積乱雲群の存在が明らかにされただけです。つまり今まで無かったのではなく、私たち人間が気付けなかっただけでした。


この発見は豪雨災害から多くの人を助けることができるものです。正に気象における目から鱗が落ちる。見えなかったことが見えるようになった発見ではないでしょうか。「目から鱗が落ちる」とは、使徒パウロが改心する劇的な出来事に由来するフレーズです。彼は主イエスを信じる者たちを迫害していました。ところが、パウロは主に出会い三日間目が見えなくなります。


「サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。」使徒の働き918


サウロとは改名前のパウロです。主は彼の元にアナニヤを遣わし、彼の目は再び見えるようになります。それまで見えなかったことが見えるようになります。見えるようになったのは、「うろこのような物」が目から落ちたからでした。「うろこのような物」とは何でしょう。主イエスを信じることを妨げる物であり、信仰者としてのあり方までも妨げる物です。それを取り除かれたパウロは、迫害する者から伝道者に変えられました。


さて、スーパーコンピュータに解析させることで、理解出来なかったことの多くが明らかにされているそうです。しかし、ある情報工学の専門家は、スーパーコンピュータは占い師でしかないと言いました。見事に当たることもあれば、大きく外すこともあるからです。膨大な国家予算を費やして、人間の叡智を結集させて開発した物なのに、答えが占いレベルなのは何故でしょう。


人間がスーパーコンピュータにデータを入力するからです。間違ったデータを入力してしまえば、たとえ世界一のスーパーコンピュータであっても、正しい答えを導き出すことは不可能です。要するに私たち人間が間違い易く、あやふやで当てにならない存在なのだということです。そんな人間の知恵や力を頼りにしてはいないでしょうか。それこそ、主との交わりを妨げる「うろこのような物」となっています。頼りなるのは主のみです。

地上では旅人

先月、父の日音楽会がありました。この行事は畑山兄の発案で始められて、何回目になるでしょうか。今回は駐車場に車が溢れる光景を初めて見ました。その時、「志のあるところに道は開ける」という言葉を思い浮かべました。誰の言葉かと調べたらリンカーンでした。
リンカーンは、アメリカ史上最も偉大な大統領と称されています。小学生の時に彼の伝記を読みました。聖書への言及が何箇所もあった記憶があります。彼のファーストネームはエイブラハムです。創世記のアブラハムから名付けられた名前です。丁度、先聖日の礼拝説教で、越後長老がアブラハムを取り上げていました。
信仰の父、アブラハムは、行き先も知らないのに、神の約束を信じて出発しました。でも、失敗を何度もしています。リンカーンの生涯も失敗の連続でした。苦労して事業を起こすも二度失敗し、多額の借金を背負います。結婚目前に婚約者は亡くなり、精神疾患で苦しみます。苦学をして弁護士になっても、弁護士業も上手く行きません。政治家を志しても、州議会議員と国会議員選挙では何度も落選しています。それなのに大統領になれました。「志のあるところに道は開ける」という手応えを掴む失敗の一つ一つであったと言えます。

アブラハムの失敗はどうでしょう。約束のものを手に入れることはありませんでした。それでも信じて生涯を全うされました。失敗に屈しない彼の信仰はブレません。神の約束を疑うことがありません。寧ろ信仰が強められたのではないでしょうか。

ヘブル11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

先月は召天者記念礼拝もありました。先に召された方たちの地上での歩みを偲び、自分たちの今を鑑みながら、天の故郷へ思いを馳せました。そう言えば、父の日音楽会では「旅人の歌」を賛美しました。天の故郷目指してのそれぞれの信仰の歩みは続きます。この先も失敗や困難が待ち受けているでしょう。その度に私たちの信仰も強められるはずです。だから、地上では旅人であることを覚えて、主の御名をほめ歌いましょう。叩けタンバリン、鳴らせトランペット、響けシンバル、歌え旅人!

義の太陽


 本日(523日)はペンテコステです。イエス様が約束された聖霊が降られて、初代教会が勃興した歴史的記念日です。毎年、日付が変わる記念日だというのに、教団教派を超えて、同じ日にペンテコステ礼拝を行っています。クリスマスもイースターも、やはり同じ日に、各教会で礼拝が執り行われています。足並みが揃っているのは何故でしょう。それは教会暦があるからです。初代教会以来の歴史の中で、教会暦が形成されて、今も世界中の多くの教会が、教会暦に従って一年の計画を定めています。


 ペンテコステは、イースターから50日目です。そのイースターは、二十四節気の「春分」以降、満月の後の日曜日と定められています。二日前、21日は二十四節気の「小満」でした。草木が青々と成長する頃を指しています。二十四節気は、太陽の動きから季節を指し示す暦です。では、教会暦は何を指し示す暦なのでしょう。教会暦は、新訳聖書の記述からイエス・キリストを指し示している暦です。


 教会暦の一年の流れを理解して、その日その時の礼拝に集うのなら、折に触れて新訳聖書の出来事が身近に感じられるはずです。何故なら、教会暦はクリスマス、イースター、ペンテコステの三大祝祭日を中核に据えて、イエス様の誕生、公生涯、十字架の死と復活、昇天、聖霊降臨、使徒たちによる宣教、教会を建て上げるという流れを辿っているからです。福音書と使徒書の記述をなぞるように、一年を過ごすことが出来ます。


 ペンテコステは教会暦の大きな分岐点です。聖霊降臨節に入ります。アドベント(待降節)まで半年も続きます。聖霊が降られた時から、劇的に使徒たちは変えられました。主の復活の証人として、福音を宣べ伝え、各地で教会が建て上げられて行きました。今、私たちに託されていることと同じことをしています。彼らの後を追うような半年が、本日から始まりました。


 今月の5日は、二十四節気の「立夏」でしたが、まだ朝晩はストーブを焚いていました。太陽から見て北半球が夏の位置になったのが「立夏」です。でも、低気圧で厚い雲が覆って、風が吹き雨も降るという気象条件によって、夏の始まりとは思えなかったのです。これから梅雨も待ち受けています。しかし、どんなに低気圧が居座り、雲が地表を覆い雨が降ろうとも、雲の上で夏の太陽は燦然と輝いています。


 弟子たちの目の前で、イエス様は天に昇られました。目を凝らして空を見上げても、もうイエス様を見ることは出来ません。まるで雲が遮っているかのようです。ところが、雲は取り除かれました。約束の御霊が降られたからです。私たちの内に宿り、義の太陽であるイエス様から、恵みが降り注いでいるではありませんか。


しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。マラキ書4:2

真の礼拝者たち

 イースターと同時に、礼拝プログラムが変わりました。大舘教会に合わせるためです。そして、先聖日は大舘教会とオンラインで共に礼拝をしました。慣れないことが続いています。思わぬトラブルもありました。これで良いのか不安になります。でも、教職不在という現状において、各奉仕者たちの負担を軽減させて、教会の働きを持続させるための最善策であると考えています。この取り組みも必ず益とされることは間違いありません。
 先聖日(4月18日)は焦りました。礼拝の冒頭、スピーカーから音が出ないのです。それまで何度もテストをしていたのに、まさか本番でトラブルが起こるとは想定していませんでした。映像を切るとパソコンから音声だけは聞こえたので、映像無しで音声だけを聞いていただきました。でも、パソコン本体からの小さい音が出ているだけでした。それでも、集われた皆さんは不平も言わず、忍耐強く耳を澄まして下さいました。真の礼拝者たちを見たような気がしました。
 礼拝が終わった時、疲れを感じました。正直、説教奉仕よりハードワークでした。疲れた人を休ませる主の御元に来たというのに、疲れるとは何事でしょうか。疲れ知らずのスーパーマンはいません。それほど私たち人間は弱いのです。だから、休みと安らぎを与える主の御元でも、疲れる時もあるでしょう。何しろイエス様も疲れを覚えられました。
サマリヤの井戸の傍らで、イエス様は疲れて座っておられた時の出来事が、ヨハネの福音書4章にあります。そこで出会った女との受け答えの中で、イエス様は、「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」と仰っています。
 真の礼拝者とは、霊とまことによって礼拝をする人です。どういう人でしょう。父なる神の御前で嘘偽りのない礼拝をする人です。神から見て罪人でしかないのに、自分には罪なんか無いという虚勢を張って、礼拝をしてはならないのです。神様は私たちの全てをご存知です。隠しようがありません。だから、私たちは、罪を悔い改めて、心から主イエスを信じて、罪を赦されて救われました。しかし、救われていても罪人でしかありません。決して罪と無関係になった訳ではありません。従って何度でも罪を赦される必要があるのです。
 ル―テル同胞カテキズムに、「礼拝説教において公に罪の赦しが語られている」とあります。真の礼拝者のために、説教者を通して罪の赦しの宣言が、主日礼拝には間違いなく備えられています。勿論、宣言されるのは主イエスです。「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」マタイの福音書9章2節

幻(ビジョン)を見よ

 今月末で神が遣わされた岡部師退任となります。長年のご奉仕を感謝いたします。歴代教職最長十五年の奉仕でした。これから牧会者である教職不在になります。代わりに長老会が牧会責任者となります。私が長老になって、初めて長老会に出席した時、先生は定年と同時に退任すると発言されました。しかし、数日後に撤回をされて、その後、継続教職として三年仕えて下さいました。体力と健康面に不安を抱えられているご様子でした。いずれまた退任を申し入れるだろうと想定していました。出来ることなら、召されるまで能代で奉仕していただきたかったです。でも、先生が安心して奉仕できるような関係性と環境を築けませんでした。ただ先生に任せるだけで、中途半端に支えて来た結果なのかも知れません。

 一昨年、再び岡部師が退任を申し入れられた頃、教団教育部で牧師たちに、理想的な長老は誰ですか?と聞く機会がありました。名前が挙げられたのは、私の母教会の故広橋長老です。悪い長老の見本のような方だと思っていただけに驚きました。確かに牧師を熱烈に支えた長老でした。ところが、牧師と信徒の間に立たされた時に、「牧師の言うことは正しい」と言い張り、双方を取り成すことよりも、牧師ファーストを貫いた方でした。それが信徒間の分断と教会の分裂を招いたように、私の目には映りました。彼は牧師が一を言えば十を知り実行する長老でした。ある時、松山先生が説教のなかで「大リバイバルが起こり、会堂に人が入りきれなくなる時が来る。」と述べたそうです。土崎教会が見た幻(ビジョン)です。また大風呂敷を広げていると誰もが聞き流しました。でも、広橋長老は翌週から会堂にパイプ椅子を並べ始めたそうです。座る人が居なくても並べ続けたそうです。数年後、私が初めて礼拝に行った時、座ったのはそのパイプ椅子でした。会堂は人で溢れていました。あの頃、土崎教会の信徒たちは本気でリバイバルを信じていました。

 ところで、能代教会にもビジョンがあります。ビジョンを幻のまま片隅に追いやっていないでしょうか。いつも週報や月報の目立つところに掲載しています。「聖書の教えを堅く守り、交わりと聖餐の恵みに励まされて、人々の救いを求めて祈りに専念する教会」パイプ椅子を黙々と並べ続けるように、「人々の救いを求めて祈りに専念」しましょう。そして、私たちの祈りを先導するのは、「聖書の教え」です。神様のみことばそのものである主イエスです。主の御名を崇めます。

箴言29章18節「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」

律法における祝福


 今年は、4月より週報がリニューアルされます。その中に十戒も組み込まれます。それで、改めて律法とは何であるかを見ていきたいと願っております。
Ⅰ律法とは何か?
 律法と訳されるヘブル語は「トーラー」ですが、「指示」「教導」を意味するそうです。その中でも、信仰生活の指針として最も身近なものは十戒(十のことば)です。律法のイメージは、窮屈感、拘束感でしょうか?本来はそうではありませんでした。レビ記18章5節を引用します。「あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行う人は、それによって生きる。わたしは主である。」これは神の「おきて」を守る者が、救われると証言しているのです。これが、律法の特質です。律法の役割を知ることは、何とも情けない自分自身の姿を知ることにも繋がります。現在、律法は私たちをキリストへ導くための養育係となりました。
 それは、神が私たちの真の幸せを願っていることでもあります。
 
Ⅱ福音とのかかわりについて
 律法の役割を知れば知るほど、自分自身の罪深い姿が浮き彫りになってきます。律法は私たちの行いを対象としています。「こうすべし、こうしてはならない」というところに主眼点を置いています。一方、福音はこの私を対象にせず、イエス・キリストを対象にしています。イエス・キリストは、私にとって救いであり、平和であり、私の罪の身代りとなって死なれたお方です。このお方を絶えず、心に覚える者として歩みたい者です。イエス・キリストの十字架の前に悔い改め、十字架を見上げる時、確実に罪の赦しと平安が与えられます。これは。福音に与っている者たちの祝福です。
 この恵みが私たちの人生を豊かに充実したものにするのですから。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14.6)
 神の祝福がありますように、お祈りしております。

使徒たちの教えを堅く守る

                
 
 今年の教会の指標聖句は使徒の働き2章42節と願っております。この聖句は教会目標のことばとも重なります。
 ところで、初代教会の成り立ちは、ペンテコステから始まっております。聖霊に満たされたペテロの説教に心刺され、応答した人々、約3,000人から形成されました。この人々の名前も境遇などは聖書から知ることは出来ません。ただ、共通しているのは一人一人がみことばを受け入れ、主イエス・キリストを信じたことです。
Ⅰそこで彼らは何をしていたでしょう。
 使徒の働き2章42節のみことばです。
「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」これは、現代の教会活動と基本的には、さほど変わりがないでしょう。聖書の学びを大切にして、聖餐式を重んじています。そして、交わりをしています。交わりは飲食もさることながら、その交わりの中に主がおられるかどうか問われます。
「……私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの。」Ⅰヨハネ1.3 私たちはともすると、インパク
トのある働きをして多くの人々が教会に導かれることを願うでしょう。誘惑もあります。主を信じた者達がみことばに、主イエス・キリストにしっかりと結びついてこそ、インパクトのある働きも生かされてくるでしょう。
Ⅱその結果として47節のみことばです。「神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」これは、聖霊が主を信じる人々の間で豊かに働かれた結果です。信者達の行動が巷で、人から人へと良きうわさが広まっていったのでしょう。そして、主も毎日救われる人々を、仲間に加えてくださったのです。人の救いは、神の働きですから人間が関与すること全く出来ません。 私たちもそれぞれ置かれた所々にあって良きキリストの香りを放っていくものとさせていただきましょう。それが、一つとなって結び合わされて教会の麗しい交わりが育てられていきます。それが、やがて未信者の方々にも届いていくでしょう。 人をかき集める教会ではなく、人が駆け寄ってくる教会を目指しましょう。

恵みとまことに満ちているお方


 
 今年は、11/29(日)より待降節で12/20(日)がクリスマス礼拝でした。クリマスストーリーは毎年同じですが、その年毎に与えられる恵みは違っております。その恵みの一つ一つを辿ってみましょう。
Ⅰ 神が人となられて、この暗闇の世界においで下さった。
 マリヤは身重でありながら、夫ヨセフと旅を続けました。ナザレからベツレヘムまで、約140キロ~150キロの道のりでした。そして、家畜小屋で出産し、その男の子は飼い葉桶に寝かされました。さらに、最初に訪問したのは、社会的最下層での働きをしている羊飼い達でした。なぜ、このような場所の出産なのでしょう。
 それは、どんな人間でも救い主に近づけるようにと、御子を低き所に誕生させてくださったのでしょう。
 何という測り知れない神の深い知恵と愛の現れではないでしょうか?
 だから、誰でも主イエス・キリストを求める者なら、大胆に神に近づくことが出来るのです。
 
Ⅱ 私たちのために!
 「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
(ルカ2.11)
 主キリストは私たちのためにお生まれになったのです。それは、私たちの罪の身代わりとなって、神の前に裁かれ、死なれ、三日目に復活するためです。また、クリマスの時は特に神の愛を強く感じさせられます。どれほどの深い愛でしょう。また、底知れぬ愛でしょう。そして、信じる者たちの内に住んでいてくださるのです。ただ、ただ、へりくだって主に感謝し賛美する者です。また、一人でも多くの方が救い主を信じて受け入れてくださるようにと祈らされます。
 心からメリークリスマス!
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
(ヨハネ1.14)

神と人に愛される者として


 神はすべての人を祝福したいと願っておられます。
Ⅰ神の祝福とは何か?
 神の祝福のことばには大きく分けて、二種類あります。「マカリオス」という言葉は霊的な祝福を示しております。マタイ5.1-11の箇所で用いられている山上の説教での言葉も「マカリオス」です。マタイ5.3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」神の祝福はすぐに与えられる場合もありますが、徐々にという場合もあります。時には、必ずしも自分の願うような祝福が届かないように思うこともあるでしょう。しかし、何よりの祝福は、イエス・キリストの救いに与っていることです。そのことに思いが及ぶ時、感謝で心が満たされます。考えてみれば、人は神の祝福なしには、歩んでいけない存在だと知らされます。箴言10.22のみことばの通りだと知らされます。
「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれらに加えない。」
Ⅱ子供のようにとは?
 
マルコ10.15の箇所では「子供のように」と書かれております。子供の特徴は純粋無垢、素直さなどが挙げられるでしょう。しかし、子供であっても、大人であろうと罪を持っているという事実は変わりません。「我罪人の頭なり」そのような心境にならざるを得ません。ですから、イエス・キリストの十字架の下にひれ伏すのです。そこから、主にある罪の赦しの確信、永遠のいのちの保証、悪魔の支配下からの解放をいただくのです。これはまさに福音です。
 それと同時に示されるなら、悔い改めの祈りも必要です。そこでまたリセットされて、新しい恵みに潤されます。だから、繰り返し、私達はやり直しが出来るのです。感謝なことです。
 願わくは、子供のような純真な柔らかな心に日々、造り変えて頂き、新しい主の恵みに浴させていただきましょう。
 さらにお一人お一人の上の主の祝福と信仰生活が豊かでありますようにお祈り致します。

みことばに従った時に

                                  
 
 ヨシュア記は今から、約3400年前の出来事が記された歴史の書です。この書を多く記したヨシュアは、モーセの後継者として主に召し出されます。
ところで、ヨシュアと言う名前ですが、ヨシュアはヘブル語の発音であり、ギリシャ語では「イエス」です。これは、「主は救い」という意味ですから、何とも意義深さを感じさせられます。イスラエルの民は、エジプトを出発してから、40年間、荒野での生活を強いられました。そして、エジプトを脱出した成年男子の中で、カナンの地に入れたのは、カレブとヨシュアだけだったのです。それほどに、荒野での40年間は過酷な生活だったのでしょう。
 いよいよイスラエルの民はカナンの地に向けて出発します。最初に立ちはだかるのは「ヨルダン川」でした。それに対して、主はヨシュアに語りかけます。ヨシュア記3.8「あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』」この季節は雪解けの
 
水や雨が降りやすいので水かさが多い時であったようです。やがて、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭に立って進んで行きました。ヨシュア記3.15-16「箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、―ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが―上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち……塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。」
 みことばに従うことを視覚的に教えられる箇所でもあります。イエス・キリストが語られたように、「見ずに信じる者は幸いです。」このみことばの通りだと知らされます。
 私たちも日々の歩みにおいて、たとえ、小さなことでも神のみわざを見いだすことが出来るなら何と幸いではないでしょうか?
続けて、みことばに従った歩みへと導かれていきますようにお祈りします。 

霊の目を開かれて


2020年も早くも9月が終わろうとしています。9月の上旬は、残暑が厳しかったですが、徐々に季節は移り変わっています。今は、すっかり秋らしくなりました。
ところで、ヨハネ9.1-41の箇所には、生まれつきの盲人が癒された出来事が記されています。これは神の奇跡です。そのことを目撃しながら、霊の目が開かれなかった人々は何と残念なことでしょう。
Ⅰ生来の盲人が癒された奇跡について
 ヨハネ9章1-7節には、盲人が主イエス・キリストによって癒された記事が、具体的に書かれています。イエス・キリストは地面につばきをしてそれで泥を作りました。その泥を盲人の目に塗ったのです。常識では考えられない方法でした。そして、盲人の人にその状態で、シロアムの池で洗うように語っています。この人をサポートしてくれる人がいなければ出来なかったことでしょう彼は神のおことばに従順でした。様々なマイナスの思いも浮かんだことでしょうが。「そこで、彼は言って、洗った。すると
ると、見えるようになって、帰って行った。」(ヨハネ9.7)
Ⅱ再び主イエス・キリストと出会う癒された人
 癒された人は、近所の人々やパリサイ人達、自分の両親からさえも阻害されてしまったのです。彼は、罵られ、ついには会堂より追放されたのです。そのような状況で失意のどん底に落とし入れられたのではないでしょうか?その時、再びイエス・キリストは彼を見つけ出したのです。そして、彼の心が開かれて、ついに信仰告白に導かれました。38節「彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した。」この時、彼の霊の目も開かれたのです。私達もイエス・キリストを信じたことにより、霊の目が開かれたのです。(感謝)この出来事から教えられることは従順こそ祝福につながることです。 「そこで、イエスは言われた。『わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見えるもので盲目となるためです。』」(ヨハネ9.39)

コロナ禍の恵み



 2020年はオリンピックイヤーで、華やかで盛り上がる年だと年頭には思っていました。それが、中国経由の新型コロナウィルスの感染拡大により生活が一変しました。5月には全国に緊急事態宣言まで出されました。社会全体が困惑する中で、ふと思い出しました。それは、このような賛美でした。「数えよ主の恵み 数えよ主の恵み 数えよ一つずつ 数えてみよ主の恵み」(新聖歌172)私たちはこれまでの歩みを振り返ってどんな恵みがあったでしょう。恵みは意識しないと解りませんので。
Ⅰ教会員及び家族等は感染から守られている
 現在のところですが、私達は守られています。日々、祈りつつ、神の助けや守りを祈っていることでしょう。今、感染し苦しんでいる方々の癒しのため、また、最前線で働いている医療従事者のためにも祈りましょう。目に見えないウィルスですから、誰もが感染する危険性を持っています。また、誰もが感染させる危険性をはらんでいます。そのことを覚えつつ、日々、過敏ではなく注意深く歩んでいきましょう。
Ⅱ集会が継続されている
首都圏や秋田市でも教会の集会を休止をせざるを得ない状況にあります。ですが、当教会は集会出席者が少ない恵み(?)で休止することなく集会が継続されています。三密を避けること、各自の感染対策の徹底、礼拝式の途中で換気することが効果的だったのでしょうか?換気すると新しい風が会堂内を包み込み爽やかです。
また、個人的には自粛生活を強いられているので、さらに静かな時間が増えたように思いますがどうでしょう。
 やがて、コロナウィルスの感染拡大も終息することでしょう。私たちは今、自分たちに託されている人々に福音を届ける働きの時ではないでしょうか?
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」 (イザヤ41.10)
 神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。

たましいの幸いを



 2020年も後半の歩みに入りました。今年はオリンピックイヤーということで、スポーツの祭典で華やぐ年になるだろうと最初は考えていました。ところが、この新型コロナウィルスの感染拡大により、日常生活が一変したようです。しかし、全知全能のお方に委ねつつ、コロナウィルスの収束もそうですが、すべてのことを祈れることは幸いです。ところで、ヨハネの手紙第三2節には、たましいに幸いを得るようにと祈りが勧められております。
Ⅰたましいに幸いを得る祈りについて
「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」(ヨハネの手紙第三、2節)
 私たちは三つの部分によって存在していると言われております。体、精神、霊です。神を信じていない方々は、霊(たましい)のことについて、あまり関心がないようです。ですが、聖書によれば、まず、たましいに平安があってこそ精神や体も安定するのです。真の健康を取り戻すというか…。病気の場合もありますので、一概には言えませんが。さて、この手紙の受け取りのガイオは、真理に歩んでいることで称賛されています。差出人のヨハネはどんなに喜んだことでしょう。真理に歩むことにより、真実な行いにも繋がっていくのです。
Ⅱ残念なデオテレペスについて
 この方の記述はヨハネの手紙第三9節-11節にあります。彼は彼らの中でかしらになりたがっていると書かれています。自己顕示欲、自己中心でしょうか?ここからは反面教師として学んだら良いかと思われます。
11節には次のように記されています。「~善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのないものです。」誰もが、デオテレペスのようになりうる可能性は持っているのです。罪の性質がありますので。聖霊に心を探られながら、悔い改めつつ、主の十字架を見上げて、主の赦しを確信しましょう。そして、それぞれが置かれた所々にあって、世の光、地の塩の役割を喜んで果たす者とさせて頂きましょう。
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父の日とアブラハムの祝福



 6月21日(日)は父の日でした。父の日の由来は(毎年書いていると思いますが…)1910年アメリカ・ワシントン州スポーカンに住むソナラ・ドット婦人が提唱したことに端を発しています。彼女の父親は、自分の妻が亡き後、男手一つで彼女を含め6人の子供を育てたそうです。そのことに感謝し、母の日があるならば、父の日があっても良いのでは考えたようです。彼女の父は6月生まれだったこともあり、1972年6月第3日曜日からアメリカの祝日になったそうです。父の日も母の日も教会から始まったことは興味深いことです。
 ところで、父との関連で思い起こすのが、信仰の父、神の友と呼ばれたアブラハムのことです。彼は75歳の時、次のようなみことばが与えられました。
「…あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、わたしはあなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろうものをわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12章1~3節)
この契約は「祝福の契約」と呼ばれます。やがて、アブラハムとその家族は、みことばに導かれてハランの地を出発しました。みことばに従っての旅立ちとはいえ、不安要素は大きかったことでしよう。75歳ですから、決して若い年齢ではありません。そして、住み慣れた土地や親族との別離もあったことでしょう。さらにわたしが示す地とは言っても明確ではありません。それでも、彼らは進んで行きました。みことばの約束を握りながら。アブラハムも弱さがあり失敗もありました。それでも、なお、神の約束は変わらず、真実であると信じ続けたのです。私たちも主の約束を握り続けながら歩んでいきましょう。
「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」  (ヘブル11章8節)

心を注いで祈る母の姿



 今年の母の日は5月10日 (日)でした。母の日の由来はご存知のように、天国に帰った母を追悼する集会から始まりました。その女性は「アンナ・ジャービス」という人でした。彼女は教会学校の教師であった母の言葉を思い出したのです。そして、1914年にアメリカではこの年から国民の祝日となりました。
ところで、聖書の中には様々な母親が記されています。その中でも、祈る母の代表として、Ⅰサムエル記に登場するハンナを思い出します。彼女は今から約3千年前にイスラエルの既婚の女性として歩んでいましたが不妊の人でした。当時、イスラエルではこのような不妊の女性は神の祝福から遠ざかっているとされていました。さらに、もう一人の妻、ペニンナのことばは苦痛に満ちたものでした。痛んでいる傷口に塩を擦り付けるようなものだったのでしょう。そのため、ハンナは泣き、食事も喉を通らなかったようです。夫のエルカナは愛の溢れた配慮をハンナにしました。しかし、それでも彼女の心は癒されなかったのです。ハンナはその痛みをすべて主に持っていきました。主の前に心を注ぎ出して祈り続けました。心を空っぽになるまで祈り続けました。その様子を見ていた、祭司エリは、この人が酒に酔っているのかと勘違いするほどでした。彼女は祭司エリに率直に自分の苦しみを告げました。その結果、どうなったのでしょう。その前にハンナの祈りが変化していったのです。私たちはよくこんな祈りをするでしょう。〇〇がありさえすればです。しかし、ハンナの祈りは〇〇がなくともに変化しているのです。この場合、自分に望んでいる通り、子供が与えられなくとも受け止めます。それを主のみこころとして。それは、何とも驚きの祈りの変化です。
 このように祈る母が私達に与えられているなら感謝なことです。また、そんな母親になることを目ざしていきましょう。「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ、神は、われらの避け所である。」       (詩篇62篇10節)

イースターの祝福



 今年のイースター礼拝は4/12(日)でした。主イエス・キリストの復活の喜びは希望溢れるものです。残念ながら今年は、新型コロナウィルスの感染拡大の影響もあり、大声で宣伝する難しさを痛感させられました。では、聖書に書かれている主イエス・キリストの復活の事実を再確認していきます。
Ⅰ 主イエス・キリストの体はなか
った
 ルカ24:1以降を読んでいきます。安息日が明けるのを待って、早朝に女弟子達は主のお体に香料を塗るため墓に着いたことが記されています。ルカ24:2-3「見ると、石が墓からわきにころがしてあった。入って見ると、主イエスのからだはなかった。」何とも驚くべき事実です。墓の入口にあった大きな石が転がされてあったのです。彼らは、主が、「人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない」と以前に語られていたおことばを、この時はまだ、思い出すことが出来ませんでした。みことばを聞いても信じ切れていなかったのでしょう。それほどに、復活の事実は驚くべき事柄でした。
Ⅱ 生きている方を死人の中で探す不
思議
 ルカ24:5「…『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。』」彼女たちのような事柄を私たちも行っているのではないでしょうか? 主イエス・キリストは、復活され、生きておられ、墓の中にはおられないのに。復活の祝福は、主を信ずる者たちの内に肉体が死んでもなくならない永遠の命を宿していることです。そこには、死を超えた命の希望があるのです。  
さあ、もう一度、そのことを再確信しましょう。
 主は今、信ずる者たちとともに生きておられます。イースターの祝福がお一人お一人の上に豊かにありますようにと祈ります。
「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 (マタイ28:20)

義のために苦しむとは



 今年のレント(受難節)は、2/26~4/11迄です。私たちは受難週だけではなく、レントの期間も主イエス・キリストの苦しみを覚えて、過ごしたいものです。
 ところで、Ⅰペテロの手紙は、主の苦しみと同時に、信仰者の苦難についても記されております。それに関して、二つの事柄を取り上げます。
Ⅰ 義のために苦しむ
 世の中には、何とも言えない理不尽な事柄が起こって来ます。そのような時に私たちはどのように対処するでしょうか? 14節のみことばを記します。
「いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。」次の15節に記されているように、キリストを主と崇めつつ、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には弁明しなさい。このように勧められています。私たちは、どのような状況にあったとしても、主にある希望が与えられています。感謝なことです。求める人にはその希望を分かち与えましょう。それが証しです。証しを難しく考える必要はありません。私の内になされた主の業を語れば良いのですから。
Ⅱ キリストご自身も苦しまれた
18節「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」ここで記されている「死なれた」とは、苦しみの中であえぎ、葛藤してそれを耐え忍ばれたことを強調している意味だそうです。私たちと同じ肉体を持ち、十字架刑に架かられたことは言葉を失う程の苦しみだったことでしょう。それは、すべて、全人類の罪に対する、神の怒りと裁きを一身に受けるためでした。私たちを神のもとに導くため、いわば、橋となってくださったのです。一般的に橋は、車、自転車、バイク、人等に無造作に踏みつけられます。主の苦しみの故に私たちは癒され、慰められることをこのレントの時に深く味わっていきましょう。

光の子どもらしく歩む


 
 エペソ書の4章~6章には、クリスチャン生活の実践の事柄が記されています。その中で愛されている子どもらしく、また光の子どもらしく歩みなさいと勧められております。それはどのような事でしょうか?
Ⅰ キリストは私達のためにご自身をささげてくださった
 エペソ5:1-2には次のように記されています。「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。……キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」供え物とは「特に命あるものが血を流すことを表す」とされています。主はすべての人の身代わりとなって十字架上で尊い血を流し、救いの道を切り開いたのです。それほどにまでに、私達を罪からの解放と赦しを与えて下さろうとしたのです。私達が、神と共に、その人らしく歩むための救いの道を備えてくださったのです。
 ハルルヤ!感謝です。
Ⅱ光の子どもらしく歩むために
そのためには、「御霊に満たされることです。」エペソ5:18には次のように記されています。「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」イエス・キリストを救い主と信じた者達には聖霊が与えられています。
しかし、聖霊に満たされることと区別して考えなければなりません。そこには大きな相違があります。聖霊に満たされるためには、自分の意志をすべて明け渡すことです。ですが、それが難解です。葛藤、戦い、悩み、思い煩いが生じます。そこを、何とか、神の助けを充分頂いて超えさせていただきましょう。
その時、不思議な義の実を実らせて頂けるのです。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」
(ガラテヤ5:22~23)
お一人お一人の信仰の歩みがさらに祝福されますようにお祈りします。

真の満たしを求めて



 2020年も早くも1月が過ぎようとしています。今年はオリンピック・パラリンピックイヤーでもあります。数年前から着々と準備が進められ、関係者のみならず、テレビで鑑賞する者達にとっても楽しみなことです。向上心は大切な心得でしょうが、同時に自分自身の限界を知らせていただくことも大切です。また、関連ですが現代は物質的には満ち足りているけれど、何か心が満たされない、不満足の時代のような印象を受けます。第二次世界大戦直後は、特に人々は肉の糧を得るために無我夢中で働いた時代でしょう。それから、75年が経過しています。
 ところで、ピリピ書を読んでいきますと神が与える満足について教えられます。ピリピ書4章11節~12節には次のように記されています。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」私達が今、置かれている境遇は時間とともに変化していきます。境遇の変化により一喜一憂していたのでは、ストレスを抱え込んでしまいます。
しかし、神が与える真の満たしあるならば心の表面は波立っても、心の奥深くは神の平安が横たわっているのです。この平安は、どんな状況でも、いつでも、求める者には間違いなく与えられます。感謝が溢れてきます。
伝道者パウロも様々な苦難を通らされて、神にあって満ち足りることを学んだのでしょう。その間、私達と同じように、焦り、不安、不満、恐れ、葛藤が襲いかかって来たことでしょう。しかし、勝利の主イエス・キリストによりすがり歩まれたのでしょう。私達もたとえ、現実が受け入れ難いとしても、時間を多くかかったとしても、そのことを受け止め、受け入れることが出来るなら新たな道がきっと開かれていきます。「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」

神からの贈り物


 メリークリスマス!
今年の当教会でのクリスマス礼拝は22日です。そして、今年は何とクリスマス・コンサートも行われます。感謝なことです。
 ところで、クリスマスの祝福を考える時に、何と言ってもそれは、神からの贈り物です。それがイエス・キリストご自身です。次にクリスマス集会の時に必ず、朗読される箇所を記します。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」この箇所には、「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」と書かれてあります。この救い主が、私たちの人生においてとても重要です。ご存じの事ですが。それは、私たちを罪から救って下さる救い主がお生まれになったからです。私たちはどんなに努力しても自分を罪から救い出すことの出来ない、無力な、みじめな、弱い存在です。そのことを認めることは幸いです。それが罪の自覚に繋がります。パウロは語っています。「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私の内に住む罪です。」(ローマ7:19-20)私たちのこの罪を取り除いてくださるために、神はご計画を進められ、時満ちて、イエス・キリストをこの世にお生まれさせたのです。これがクリスマスです。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなられて残虐な十字架刑で死ぬために、この罪と闇の世にお生まれになりました。
 ですから、イエス・キリストを自分自身の救い主として受け入れた時、信じた時、それは、神からのプレゼントを受け取ったことになります。プレゼントですから、自分の意志で拒否することも出来ます。なぜなら、選択はあなたの手に委ねられているからです。当然、結果もついてきます。願わくは、多くの方が救い主に心を開き、受け取って欲しいと思わされてなりません。
 クリスマスの祝福がありますように。

霊的一致を保って

              
 ピリピ書はパウロが、ローマの監獄に収監されていた時に記されたとされています。この書簡の特色は、ピリピ教会の人々に対する感謝の気持ちに溢れていることです。また、特に主にある喜びが強調されています。パウロが獄中生活を送りながら、このような喜びに満たされていたということは驚くべきことです。
 ところで、パウロは、このピリピ書で主にある一致のことも勧めています。主にある一致の恵みを考えていきましょう。
Ⅰ 霊の一致を保つこと
 パウロは、一致を生み出すのではなく、霊の一致を保つように語っています。すでに与えられている一致の恵みを保つためにはどのようにしたら良いのでしょう。エペソ4章2節には次のように記されています。「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、」このことは、ピリピ書にも書かれていますように、何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思うことだと勧められています。何と困難なことでしょう。聖霊により頼んでいかなければ不可能です。
Ⅱ 主イエス・キリストの歩みを思い起す(新聖歌99番に記されています)
 ピリピ2章6節~8節には次のように書かれています。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、……自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」どこまでも、どこまでも、神のみこころに従い通されたのです。
 私たちもへりくだられた主イエス・キリストのお姿を思い浮かべながら、互いに愛し合い、仕え合っていきましょう。不一致や不調和、争いは神の悲しむべきことです。
 互いを受け入れ合い、尊重し合い、互いの良さを見出していきましょう。
その時、霊の一致が保たれつつ、教会の歩みがさらに前進していくでしょう。
 互いのために祈り合いましょう。

神の教えを飾る


 9月16日は敬老の日でした。高齢者を敬い、愛し、仕えることは聖書でも勧められています。ところで、日本の100歳以上の方は9/15現在で、71,238人と朝日新聞に載っていました。その内、約88%が女性であることにも驚きました。では、テトス書から高齢者の歩みについてどのように記されているか見ていきます。
Ⅰ 高齢者歩みについて
 テトス2章2節には次のように記されていまする「老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。」3節「同じように年とった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。」特に老婦人達に対して、悪口を言わずの箇所が心に留まります。女性は男性と比較しますと、一般的には言葉を巧みに操れると思われます。良い言葉もあるでしょうが、非難、中傷、陰口等も含まれているかもしれません。悪口は病原菌のように感染しやすいのです。お互いに徳を高める言葉を話すように心がけましょう。
Ⅱ それはなぜか?
 テトス2章5節「……それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。」また、10節では次のように記されています。「…それは、彼らがあらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。」
神の教えを飾るとは?その人が置かれた場所で、その人らしく神の賜物を生かしながら歩むことではないでしょうか?決して気負うことでもなく、それらしく振舞うことでもありません。未信者の方々はクリスチャンの言動をさりげなく見ているのです。そして、クリスチャンとはとか、教会とは何をしているか等判断しているのです。お互いに弱さや欠けがあります。それでも、主により頼み、みことばに従う歩みを続けさせていただきましょう。
Ⅱコリント12章9節を覚えながら。
円熟した高齢者を目ざして歩んで行きましょう。

この福音に生かされて


 Ⅰ 私たちは本来、怒りの子です。
 エペソ2章3節には次のように記されています。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」このように、私たちは神の前に怒りを受ける、裁かれる存在でしかありませんでした。何と惨めな悲しい者でしょうか。しかし、神は、そのような私たちを憐れんで下さり、福音を届けて下さったのです。「ユーアンゲリオン」ということばは、この言葉を聞くだけで、嬉しくなって神を賛美し踊り出したくなるような意味があるようです。これはまさに福音です。すべて、神の側で計画し準備してくださったのです。そして、福音には大きな力があり、人々を救う力があります。残念ながら、多くの人々はこの福音に触れても心を開こうとしません。一見、華やかな、楽しそうな道を選択しようします。ですが、その道はいつまでも続くのでしょうか?
Ⅱ 福音に生かされるとは
 ところで、コリント教会には、様々な問題があったようです。最初に挙げられているのは教会員の不一致でした。Ⅰコリント1章12節には次のように記されています。「あなたがたはめいめいに『私はパウロにつく』『私はアポロにつく』『私はケパに』『私はキリストにつく』と言っているということです。」コリントの教会の場合は不一致が顕著だったでしょうが、軽微であればどこの教会にも見られるのではないですか?それほどに、人々が一致すること難しいのです。パウロはコリント教会の人々に語りました。Ⅰコリント1章17節「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。」このようにパウロは、人々を十字架のことばに心を向けさせようとしました。それは福音の力であり、人々を真に生かすことばなのです。 主の祝福があるように。

向こう岸へ渡ろう


 私達の歩みには、思いがけず突風が吹いてくるような事態が起こってきます。マルコ4章35節以降の箇所を読みますと、イエス・キリストは弟子たちに次のように声をかけています。35節「…さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われました。その日は、イエス・キリストは、多くの群衆について教えられた後でした。夕方になり、群衆を解散させた後、弟子たちだけに何かを教えようとされたのでしょう。
 弟子たちの舟は、始めは順調にすべり出しました。その後、思わぬ出来事が起こります。37節のみことばです。「すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。」と書かれています。そこで弟子たちはあわてふためきます。38節「…先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」このように主に訴えています。このことを、私たちの人生に置き換えますと、様々な問題、困難などに時折、直面します。そのような時、私たちはどうするでしょうか?問題ばかりを見つめ、恐れる、みじめな自分自身の姿が浮かび上がってくるようです。では、イエス・キリストはこの時、どうされていたのでしょう。ぐっすり眠っていたと他の福音書には記されています。夕方であり、肉体の疲れもあったのでしょう。
 では、この事態に対して、イエス・キリストの権威あることばと弟子たちの対応について。イエス・キリストはまるで風や湖に人格があるように次のように語っています。39節「…黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。」まるで、人格を持っているかのように、風や人格が静まったのです。そして、弟子たちに対して、次のことばを語られています。40節「…『どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。』」これは、どういうことでしょう。弟子たちに対する叱責のことばというよりも、もっと主に信頼することを教えているのでしょう。なぜなら、主はいつも私たちの人生の舟に同船してくださっているのですから。神に明け渡し、より頼んで歩みましょう。

父の日の祝福について


 今年の父の日は6月16日でした。
1 父の日の起源について
 父の日の起源は、(毎年書いているようですが)、アメリカから始まっています。ワシントン州に住むソナラ・ドットという婦人が提唱しています。彼女は、母の日の説教を聞いて、父の日も設けたらと考えたようです。ソナラの父は、6人の子供を男手一つで育てたようです。その父を敬愛していた彼女は当時、通っていた教会の牧師に「父の日」の礼拝を捧げることを願い出ました。その礼拝が、1909年6月19日だったそうです。その後、「父の日」は継続して行われたのですが、アメリカの祝日となったのは1972年ということです。相当な時間が経過しています。
2 父なる神と肉の父親について
 ルカ15:1-2では、律法学者達やパリサイ人がイエス・キリストについて、つぶやいて語っていると記されています。それに対してイエス・キリストは、三つ目のたとえを使って彼らに語りかけています。最後の三つのたとえは有名な放蕩息子のたとえです。父親の財産を自分勝手に使い、放蕩三昧をしたあげく困り果てて父親の元に帰るのですが……。父親はその子を怒り、裁くこともなくありのままで、受け入れてくださっているのです。ここに神の愛が溢れています。人間の愛とは桁違いです。これは神を知らなかった時代の私達の姿と重なるのではないでしょうか?罪の奴隷状態で、自分では自分をどうすることも出来ない。哀れな状況です。そんな私たちに神の側から手を差し出してくださったのです。それが、イエス・キリストの十字架の贖いです。神の前に罪赦されて歩むことは何と感謝なことでしょう。地上の父親の役割は、残念ですが、限定的、限界、歪みなともあるでしょう。しかし、その家庭においてはなくてはならない存在でもあります。父の日は父親に感謝を現すとともにその父親を与えて下さった神に心から感謝する日でもあります。
「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」

聖書に幼い頃より親しんで


 今年の母の日は、5月12日でした。母の日の由来は、生前、教会学校の教師であった母のことばを思い出した娘が、母の追悼集会でお花(カーネーション)を飾ったがことが起源とされています。アメリカ議会では、1914年に5月第2日曜日を「母の日」と制定しました。今から105年前の事です。日本では、1949年頃から普及していったようです。 ところで、当然ですが、家庭で母親の役割や影響は何と大きなことでしょう。次に引用しましたのは、一般の方の新聞投稿の記事です。タイトルは(自分のことを橋だと思いなさい)です。神奈川県在住の87歳の、主婦の方です。「戦争で焼け出され、横浜から福島の農村に移っていった時のことだ。転校した女学校で毎日、級友たちから嫌がらせの言葉を浴びせられた。中略 何かにつけてケチをつけられた。4キロ離れた学校へはいじめられに通うようなものだったが、不思議と休もうとは思わなかった。それでも家に帰ると、母に泣きながら訴えた。そんな時にかけられた言葉が今も忘れられない。『自分のことを橋だと思いなさい。嫌なことを言われた時は、橋の上をトラックが通っていると思えばいい。通り過ぎてしまえば、おしまいでしょう。橋がいちいち壊れていたら大変』中略 明治生まれの気骨ある母の言葉は、胸にすーっとしみました。私は母のように、泣き言を言わない女になった。」賢い、愛溢れる言葉に感動します。
 ところで、聖書に記されているテモテは伝道者でした。彼は母と祖母もクリスチャンでした。ですから、3代目クリスチャンと言うことになります。彼は幼い頃より聖書にきっと触れていたことでしょう。やがて、大人に成長し、神のみことばを伝える伝道者に導かれたことも幼い頃の家族環境にも影響していたのではないでしょうか?しかし、考えてみますと、母親の立場の人も一人の弱い、時には疲れやすい人間です。母親自身が、まず神の愛に充分満たされることが先決でしょう。その後で、家族や周りの人々に神の愛を分かち合っていけるのではないでしょうか?  祝福をお祈りします。

よみがえりの事実は驚き


 今年のイースターは、4月21日でした。いつも、イースターの度毎に思うことは、主イエス・キリストの復活の不思議さと同時に恵みということです。
 今年のイースターは、世界では、スリランカで教会やホテルをターゲットとした痛ましい爆弾テロが発生しました。一日も早い事件の解決と共に、ご遺族の方々の上に主の慰めがあるようにと祈るものです。では、聖書が復活の祝福について取り上げます。
Ⅰ 空の墓について
四つの福音書では、各書の記者がそれぞれの視点で主イエス・キリストの復活の事実を記しております。すべてに共通しているのは、空の墓です。ヨハネ20:7のみことばです。「イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。」これは、墓から主イエス・キリストのご遺体が無くなったことを現しています。不思議であり驚きです。
Ⅱ 主イエス・キリストの復活の事実
今年は4月14日(日)から受難週でした。主の御苦しみを僅かであっても覚えながら過ごした一週間でした。考えてみれば、受難週の最初の日曜日は「しゅろの日曜日」と言われ、民衆は主イエス・キリスト歓迎して出迎えました。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13)しかし、その週の数日後には、同じ人々が、主を「十字架につけろ」と叫び続けたのです。人の心は何と状況によって変わりやすく不安定で自己中心的なのでしょう。自分もその中に当然含まれています。主は、
こんな私達のためにあの残虐な十字架刑に架かられ死なれたのです。そして葬られ、三カ目によみがえりました。それは、自分の罪を悔い改め、主イエス・キリストを信じる者達に罪の赦しと永遠のいのちを与えるためだったのです。主イエス・キリストは罪と悪魔と死に勝利されたのです。
 主を信じる者達は新しいいのちに生かされていることを感謝しましょう。そして、日々、主によりすがって歩んでいきましょう。

お知らせ

イースターとは、キリストが死から復活されたことを祝う日です。今年もイースター礼拝を行います。


イースター礼拝

4月21日(日)午前10時30分~正午


人間にとって最も大きな問題は死です。死には誰も刃向かうことはできません。誰もが必ずいつかは死にます。死に抗うはことができる人はいません。ところが、キリストは死んで3日目によみがえることで、死を打ち滅ぼされたのです。死よりも強い方を信じ頼るなら、死を恐れる必要はありません。


「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」ペテロの手紙第一1章3節


キリストの復活には「生ける望み」があります。共に復活の主を礼拝しましょう。


ちょうどその日に


 日本では、3月~4月は移動の季節とも言えるでしょう。進学、就職、転勤、退職等、出会いと別れの季節とも言えます。
 ところで、出エジプト記に記されているイスラエルの民は何と約430年間も故郷を離れて住みついていました。それは、苛酷な重労働を日々強いられる奴隷の生活でした。イスラエルの民は、この苛酷な状況を神に叫びました。その時の思いが書かれています。「……イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。」(出エジプト記2:23-24)
それからどれ程の時間が経過したのでしょう。指導者モーセにより、エジプト脱出を試みます。しかし、うまくいきません。エジプトの王パロは、9つの災禍が国中を襲った時、悔い改めたそぶりを示しました。しかし、それは、真実な悔い改めではなかったようです。10番目の災いによってついに、イスラエルの民を追い出す決意をします。それは、エジプトの人から家畜に至るまで、すべての長子(初子)を打つことでした。当然、パロ王の子供もその中に入っています。出エジプト記12:30「…エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。」このようにして、イスラエルの民に、エジプトを出る絶好の機会が訪れました。また、出発に際して、民に備えることをモーセとアロンを通して神は語っております。「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない」(出エジプト記12:13)これは、傷のない子羊の血を門柱とかもいに塗ることによって、主のさばきが通り越されていくことを意味していました。それは悔い改め、主イエス・キリストの十字架を仰ぐ時、信じる者達に与えられる罪の赦しが与えられ神のさばきが通り越されていくことと同じでしょう。主の恵みに感謝します。

与えられた自由を生かす


 Ⅰ キリスト者には自由意志が与えられている。
 私達は与えられた自由意志をどのように、用いていけばよいのでしょう。ガラテヤ5:13には次のように記されています。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」与えられた自由は、肉の働く機会ともなるし、愛をもって仕えることも出来るのです。実はその選択は、あなたの自由意志に委ねられているのです。誰もが、弱さがあるし、誘惑にさらされる危険があります。ですが、願わくは与えられた自由意志を互いに愛をもって仕えるように心がけていきましょう。
Ⅱ 主を信じた者達には聖霊が与えられている
 聖霊が与えられていることと、絶えず聖霊により頼んで物事を決断しているかは区別されなければなりません。ガラテヤ5:17には次のように記されています。
「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆
らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」
 主は私達がイエス・キリストを信じたその時から、聖霊を心の内に与えて下さっています。何と感謝であり、心強いことでしょう。聖霊により頼むなら勝利は約束されているのです。しかし、私達は時々、聖霊を悲しませる、軽視する、無視する、反逆するそんなこともあるでしょう。そのような時、どうするでしょうか?仕方がない、成り行きに任せるでしょうか? いいえ、違います。主に向かって心からの悔い改めをすることです。色々な弁解は必要ないでしょう。説明もいらないでしょう。「……なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」(Ⅰヨハネ3:20)そして、主の赦しの宣言のことばを受けましょう。ガラテヤ5:16には次のように記されています。「…御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」

イエス・キリストから目を離さないで

 新しい2019年が始まりました。信仰の歩みをヘブル書12:1-3から見ていきましょう。

 忍耐をもって走り続ける

 一般的にですが、年齢を重ねていきますと物事に対する、ワクワク感が失われていくとの事です。ですから、時間の経過が早く過ぎ去っていくように感じるのです。では、信仰者の場合は如何でしょうか?ヘブル書12:1には、次のように記されています。「……私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」私達の信仰の歩みは、競走であって、競争ではありません。競争であるならば、他者との勝ち負けが出てきます。しかし、信仰者は、自分の前に置かれた歩みを主の手にすがりながら、自分のペース配分を進んでいくのです。その際に必要なことは、主にある忍耐でしょう。現代では、死語に近い言葉でしょうか?単なるやせ我慢とは本質的に違います。そして、天国への道は出来るだけ、身軽が良いでしょう。いっさいの、重荷やまとわりつく罪をかなぐり捨てて歩んで行きましょう。競争とは、神の国民全員が指定されている距離を自分のペースで走り切ることです。と書かれている信仰書がありました。納得です。

 イエス・キリストを見失わないで

 Ⅰの事柄を可能にするためには、イエス・キリストの眼差しを想い浮かべることも大切です。イエス・キリストは私達の罪の身代わりとなって残虐な十字架上で死なれました。そして、3日目に蘇りました。主を信じる者達には、日々、主のある希望と赦しが与えられております。何と感謝なことでしょう。また、主は知恵と知識に富んでおります。このお方には無尽蔵の宝が隠されています。自分を見るならば、弱さ、無力感、罪深さだけしかありません。しかし、目を転じて主に視線を合わすなら、そこには光が輝いております。主を、見失わないで主とともに、喜びと感謝の日々を今年も過ごさせていただきましょう。「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されているのです。」  (コロサイ2:3)

神にとって不可能はありません

 

Ⅰ マリヤが受胎告知をされる
 ルカ1:26-33の箇所には、突然、天使ガブリエルが現われ、マリヤに受胎告知の出来事が記されています。マリヤの驚き、困惑、戸惑いは当然の感情だったことでしょう。それに対して、ガブリエルの第一声は次のことばでした。28節「……『おめでとう、恵まれ
た方。主があなたとともにおられます。』」その後も次々と不思議なことばにマリヤは、ただ圧倒されるばかりだったと推測されます。
Ⅱ マリヤの主のことばに対する従順さ
 マリヤは天使ガブリエルのことばに対して、たった一つだけ、質問のような疑問を投げかけています。それは34節のことばです。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」その質問は天使カブリエルに対して、やっとの思いでぶつけたのかも知れません。それに対して、天使カブリエルは次のように答えています。37節「神にとって不可能なことは一つもありません。」それは、神にどこまでも信頼しなさい。安心しなさい。あなたが、懐妊したのは神の力であり聖霊の働きによるのだと教えられているようです。マリヤはこのみことばを心に深く留めたことでしょう。私たちは、どうでしょうか? 神をどのように捉えているでしょう。神は全知全能のお方として信じているでしょう。しかし、それが、今あなたの置かれている生活の中でどれ程、生かされているでしょうか? 自分自身も心が探られます。
Ⅲ 主の約束を待ち望むこと
 親類の人エリサベツとマリヤのやりとりが39節~45節に記されています。エリサベツは不妊の女と言われ続けて、苦難の生涯を歩んで来ました。それが、この時、不思議なことに妊娠の恵みに与かっていたのです。マリヤと共に約3カ月程生活したことが書かれています。この間、二人は不思議な出来事の分かち合いをしたことでしょう。マリヤにとっては、出産に備える良き時だったとも言えます。エリサベツがマリヤと挨拶を交わした時、エリサベツの胎内で子供が喜んでおどったと記されております。
待降節からクリスマスに至る出来事は、何とも言えない不思議が満載です。しかし、信じる者には大きな恵みです。

福音がもたらす平安


Ⅰ 私達には平安が与えられている
  ヨハネ13章からは、イエス・キリストが十字架刑に架けられ直前、弟子達とともに過ごした際に語られた告別説教が記されております。その中で、主にある平安についても語っております。ヨハネ14:27のみことばです。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたに平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてなりません。恐れてはなりません。」主が与える平安とは、この世が与える平安とは全く質が違います。なぜなら、神の御子イエス・キリストが十字架の贖いを通して、与えられる神との和解による平安だからです。私達はこの世にあっては患難があります。しかし、それに振り回されて、心の深みまで動揺することはありません。それは、主によって救われた者達は主の平安が心の奥底に注がれているからです。感謝なことです。
Ⅱ 私達に平安を与えるために
  主イエス・キリストは私達の罪の身代わりとなって十字架に架かられ、三日目に復活しました。これは福音の真髄です。最、ルーテル同胞教団では、十字架の神学という言葉が使われるようになってきました。この意味は何か特別な難しいことではなく、人の心の動機と関わっていると知らされます。物事を考え捉える時に、まず、人中心
や行ない中心ではなく、キリストの十字架中心に物事を見ることです。繁栄や成功の中に神がいるのではなく、十字架で死に救いを成就されたように、私達の罪、困難、挫折、試練にこそ神はおられ、十字架と復活において私達は、すでに祝福されているということです。福音の再発見です。
Ⅲ 私達に平安が与えられ続けるために
 私達は救われた罪人です。十戒に照らされる時、何とも情けない愚かな、罪深い自分自身の姿を知らされます。その時に、自分のありのままの姿に蓋をしないことです。また、強がらないことです。そのままで、神の前に出ましょう。必要ならば、悔い改めましょう。その時、神の赦しの確信が与
えられるのです。
 クリスチャンの歩みは生涯、神の赦され
つつ、他の人々を愛し、仕えていくことでしょう。恵みの中で歩み続けましょう。

私達はタラントが与えられている

マタイ24章からはこの世の終わりの こと、主の再臨の事柄が書かれています。それに引き続いて、25章では、天の御国のことがたとえで記されております。

Ⅰ タラントが与えられている

 マタイ25:14-15の箇所には次のように記されております。「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、もうひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。」タラントは、「能力」と訳されています。これは、神が私たち人間に与えてくださった、肉体的、精神的のすべての才能や賜物と考えられます。一タラントは6,000デナリに相当するそうです。そして、当時の一デナリは通常の一日分の労働賃金とされていました。ですから、一タラントは6,000日分の労働賃金が与えられていることになります。一タラントでも多く与えられています。

Ⅱ タラントの生かし方について

 五タラント、二タラントのしもべ達は、喜んでタラントを生かし、商売をして、それぞれ倍にして儲けたと記されております。しかし、一タラントのしもべは、何もせず、与えられたタラントを地に掘って隠したと書かれております。それは、恵みを隠したようなものでしょうか?ここには、すべての人に与えられている自由意志と選択が関わっていると知らされます。それを神との結びつきの中でどのように生かしているかが問われることでしょう。

Ⅲ ご主人の対応について

 五タラントと二タラントとのしもべへのことばは同じです。マタイ25:21「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に、忠実だったから私はあなたにたくさんの物を任せよう……。」それに対して、一タラントのしもべには叱責のことばが語られています。なぜ、このような違いが生ずるのでしょう。一タラントのしもべは、神を恐い存在として捉えているのです。しかし、心配は無用です。神は私達の性格の弱さも強さも苦手な事柄もすべてご存じです。そのお方に喜んで与えられたタラントをお返ししましょう。

いつでも、失望せずに祈る

 私達は失望しやすい者です。 

 ルカ18:1には「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」ことを、弟子 達に教えるために、たとえが書かれています。不正な裁判官とやもめ女とのやりとりです。それは、ルカ18:2-6に記されています。やもめ女に注目していきます。裁判官の所に頻繁にやって来ては、「私の相手をさばいて、私を

守ってください」同じ事を繰り返し、訴え続けたのです。ついに、この不正な裁判官は根負けをしたかのように、彼女の訴えを取り上げていくのです。ルカ18:4-5のみことばです。「彼はしばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに、『私は神を恐れず人

を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」

 彼女の姿勢から教えられることは、一回で諦めない、不屈の精神を教えられます。それは、主に対する熱心さの現われでもあります。切なる動機でもあります。私達は主に対して、このような切実な思いがどれほどあるでしょうか? 心が探られます。

 祈り続ける大切さについて

 私達は同じ事を継続するのが。困難、あるいは苦手ではないでしょうか?なぜでしょう。それは、当然ですが、飽きるからです。「継続は力なり」このことばを思い起こしますが

 さらに、サタンも囁きます。祈りに関して、「そんなに祈っても、無駄だよ。何の変化もないでしょう」等とまことしやかな言葉で信仰者を悩まします。そんな惑わしに心を引かれないようにしましょう。先程の女やもめが不正な裁判官に訴えたように、「執拗に」「熱心に」「人の目を気にせずに」「祈ることをやめない」、現代ではこのような心

持ちはあまり受け入れられないでしょうが。みこころに叶う祈りは時が満ちて応えられるのですから。主に期待しましょう。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(Ⅰヨハネ5:14

何とも不思議な神の選び

神の選びは何とも不思議です。イス ラエルの第一代目の王サウルの選びも不思議でした。それに引き続き、第二代目の王ダビデの場合はその思いがさらに強くなります。

 サウルについて

 サウルの名前の由来は「求める」とう意味があるそうです。彼はイスラエルの民の欲求の故に王に駆り出された人物と言っても良いでしょう。そして、彼の最初のスタートは良かったです。しかし、働きの途中から神への不従順が生じてきました。その理由は色々あったことでしょう。彼自身の弱さ、戦況の悪化、部下達の離反等。しかし、何よりも決定的な事は、サウルが神のことばよりも自分の思いを押し通したことにあると言えます。自分の我を通したのです。これがイスラエルの王として退けられた決定的な理由だったと言えます。サウルの一生は次のみことばに凝縮されています。Ⅰサムエル14:52「サウルの一生の間、ペリシテ人との激しい戦いがあった。サウルは勇気のある者や、力ある者を見つけると、その者をみな、召しかかえた。」これは、人脈に頼り、策に溺れ、人に頼り切る彼の生涯をよく現しております。神のみことばに聞き従う姿勢が養われていなかったのは何とも残念です。

 ダビデについて

 タビデはエッサイの八番目の息子でした。サムエルの前にエツサイの子供達が次々と現われてもイスラエルの王としての「油注ぎ」をする人物ではないと語っております。Ⅰサムエル16:7彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが主は心を見る」では、ダビテはどんな人物だったのでしょうか。Ⅰサムエル16:18琴がじょうずで勇士であり、戦士です。ことばには分別があり、体格も良い人です。主がこの人とともにおられます。」最後の主がこの人とともにおられます。これは主の働きを進めるには最も重要な事です。残念ながらサウルにはそのような記載はありません。ダビテも失敗を経験しました。しかし、悔い改め、主を見上げて立ち直っていきました。感謝です。

父の日感謝して

 今年の父の日は617日でした。十戒の「あなたの父と母を敬え」を思い起こします。 

  ところで、父の日の起源(一昨年も書きましたが)は母の日と同様にアメリカから起こったとされています。ワシントン州に住むドット婦人の提唱によるものとされています。彼女の父親は妻に先立たれ、男手一つで彼女を含め6人の子供を育てたといわれております。男の人が女の人の役割も担うことはどれ程、大変なことだったでしょう。父の日は1909619日が最初で、徐々に拡がり、1972年にアメリカの正式な祝日になりました。日本には1980年代から一般的な行事となったようです。

  では父親の役割とは何でしょうか。

 一つの信仰雑誌には、母親は「つなぐ役割」、父親は「切る役割」と書かれていました。具体的には母親は「そのままでいいんだよ。」と許す役割です。父親は「こうしなければならない」とルールを示す役割です。ちょうど、律法と福音の役割に似ている

と思います。しかし、現実には思うよ

うにいかない事が多いでしょうが。

 では、クリスチャンの親としてどの

ように子供と接していけば良いのでし

ょうか。

自分の子供を心から愛することは共通

していることでしょう。マタイ7:9-11

は次のように記されております。

「あなたがたも、自分の子がパンを下

さいと言うときに、だれが石を与える

でしょう。また、子が魚を下さいと言

うのに、だれが蛇を与えるでしょう。

してみると、あなたがたは、悪い者で

はあっても、自分の子どもには良い物

を与えることを知っているのです。と

すれば、なおのこと、天におられるあ

なたがたの父が、どうして、求める者

たちに良いものを下さらないことがあ

りましょう。」父なる神は私たちにと

って有益なものや必要なものを与えて

くださるお方です。何よりもクリスチ

ャンの親は子供のために祈る特権が与

えられております。そして、子供たち

がみことばに親しむことができるよう

に、まず親自身がその姿を時折、かい

ま見せることが大切ではないでしょうか。

初代教会が形成される

今年のペンテコステ(聖霊降臨日) 

5/20でした。使徒の働き21節以

降にその事実が記されています。この

箇所は何度読んでも不思議な現象だと

思われます。ペンテコステに関して3

つの事柄を取り上げます。

 聖霊が与えられる約束について

 イエス・キリストは復活後、40日間

500人の人々に姿を現わされたと記

されています。そして、主は昇天の直

前に弟子達に次のようなことばを語っ

ています。使徒の働き1:4-5

「彼らといっしょにいるとき、イエス

は彼らにこう命じられた。『エルサレ

ムを離れないで、わたしから聞いた父

の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバ

プテスマを授けたが、もう間もなく、

あなたがたは聖霊のバプテスマを受け

るからです。』」このようにして弟子達

は主の約束を握り忍耐と希望をもって

待ち望んだのです。私達も主の約束を

待ち望みましょう。

 聖霊が与えられる

 使徒の働き21節以降には、弟子

達に聖霊が与えられる様子が次々と記

されています。

使徒の働き22節~4

「すると突然、天から、激しい風が吹

いてくるような響きが起こり、彼らの

いた家全体に響き渡った。また、炎の

ような分かれた舌が現われて、ひとり

ひとりの上にとどまった。」その結果と

して、みなが聖霊に満たされ御霊が話

させてくださるとおりに、他国のこと

ばで語り出したのです。常識をはるか

に超えた不思議な出来事です。

 初代教会が形成される

 聖霊に満たされたペテロが人々に説

教を語りました。この時、約3,000

の人々が洗礼を受けたと書かれていま

す。その後、教会では人々は何をした

のでしょう。

使徒の働き2:42「そして、彼らは使

徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、

パンを裂き、祈りをしていた。」

 これは現在の教会生活の基本です。

時代は変化しても、教会生活の基本を

大切にしながら、各自の賜物が生かさ

れていくことを目指していきましょう。

そこにこそ、キリストにあって一つで

ありながら、多様性の拡がりと豊かさ

を見るこができます。

心はうちに燃えている

 今年のイースターは41日でした。イエス・キリストの復活の出来事は弟子達にとっても何とも信じ難いことでした。主は復活後されてから昇天までの間、40日間、約500人の人々に姿を現したとされます。それが十字架刑に架かられる時の姿であったかは解りません。

  ルカ2413節以降にはエマオの村に行く途中の二人の弟子達のことが記されています。二人は復活されたイエス・キリストが共に歩いておられたのに分からなかったのです。それは、霊の眼が遮られていたからです。あるいは霊の眼に覆いが掛けられていたからでしょう。次のみことばを思い起こします。Ⅱコリント3:15-16 「かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くならそのおおいは取り除かれるのです。」主に人が向くなら主ご自身がそのおおいを取り除いて下さるのです。感謝なことです。

  また、復活の主と出会うことは心がうちにあつく燃えることだと聖書から知らされます。それは復活の主が与る「新しいいのち」をいただいているからなのです。その内側は永遠のいのち、罪の赦し、悪魔からの解放などが恵みとして与えられます。私たちは、主が与えたモーセの律法の前に出る時何という罪人だと思わされます。自分の罪深さを知らずして悔い改めには導かれません。ましてや、主の十字架の贖いを知ることも出来ません。しかし、自分の罪を知らされ悔い改めに導かれたその時、十字架は輝いて迫ってきま

す。その結果として、今、自分が置かれた所にあって主の証人として歩むことが出来るようになるのです。イエス・キリストを知らない人々は、望みのない、恐れに取り囲まれて、暗黒をさまよって苦しんでいるのですか

ら。イエス・キリストを機会ある度にお伝えしましょう。真の解決と希望はイエス・キリストにあります。イースターは喜びと希望の日です。日々、希望、賛美、感謝、喜びに溢れて信仰生活を歩んでいきましょう。イースターおめでとうございます。

イエス・キリストの苦難と勝利

 今年の受難節は2/143/31迄です。私たちはこの期間を主の苦難を思い浮かべましょう。そのことのゆえに罪の赦しが与えられている恵みを新たにさせていただきましょう。

 ゲッセマネの園の祈りの箇所は主の苦難の祈りが端的に記されております。ルカの福音書では、弟子達とともにオリーブ山のゲッセマネの園で祈られました。ルカ22:39には次のように記されております。

 「それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。」私達もいつもの場所、いつものように祈っているでしょうか?必要ならば祈りの祭壇を築き直すことも求められているでしょう。

 次に祈りの内容です。ルカ22:42の箇所です。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」神でありながら、人としての肉体を主は持っていたのでこの祈りは激しい苦闘の祈りだったでしょう。汗が血のしずくのように地に落ちるほど祈られたのですから。私達にとっても、みこころに添う祈りを捧げることは時として何と困難なことでしょう。

それは自分の内側にある自我との戦いがあるからです。

 やがて、主の祈りは勝利へと変えられていきました。ルカ22:45には次のように記されています。「イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。」苦闘の祈りからどれ程の時間が経過したでしょう。イエスは祈り終わって立ち上がり、このところに、勝利の祈りへと変えられていることを知ることが出来ます。まもなく、主は捕えられ、不合理な裁判を受け、ついに十字架刑へと進まれていったのです。

 イエス・キリストの苦難のゆえに、私たちは神と和解させて頂き、主の赦しに与かっているのです。感謝です。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私達が罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえ

にあなたがは、いやされたのです。」

キリストにあって私たちは一つ

    今年の教会の定期総会は1/28(日)でした。それから、実際的な働きが始動しております。今年の指標聖句は昨年と同様です。従来の良き事柄は残しつつ、新しい事も取り入れていけたらと願っております。

  ところで、教会という言葉は「エクレーシヤ」が使われているのはご存じの事と思います。これは「呼び集められた者」あるいは「神の民の集まり」と訳されております。言葉の意味を追っていきますと教会とはキリストによって召されたキリストにある生きた共同体とも言えます。どこまでもイエス・キリストが中心です。そのように考えますと救いに与かった一人一人は尊い宝の民だと言えます。また、教会生活と信仰生活とは決して切り離すことの出来ない必然的な結びつきでもあります。

  そして、イエス・キリストに連なる者達にはそれぞれ、賜物あるいは役割が与えられておれます。エペソ4:11には次のように記されています。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師としてお立になったのです。」一人一人に与えられた役割は異なりますが、その使命を与えてくださったのは主自身です。ですから、その働きを果たすための力も主が与えて下さいます。それは、キリストのからだ(教会)を建て上げためなのです。ですから、高ぶりや悪巧みや人を欺く悪賢い策略によって惑わされないようにしましょう。それよりも、キリストの愛に満たしていただきましょう。そして、キリストにある一致をもって、調和によりそれぞれの賜物が生かされていくことを目指して歩んでいきましょう。

「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しつかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」エペソ4:16

 信仰生活の歩みが豊かに祝福され ますように。また、互いに必要を覚えて祈り合いましょう。

世界の初めと罪の始まり

 創世記1章1節には「初めに、神が天と地を創造した。」と記されております。初めから神が存在し、すべてを創造したことを知らされます。神は6日間でこの天地、そして人間を創造されました。特に人間を造られた時、「それは非常に良かった。」と深い満足感を覚えられたのではないでしょうか?最初の人間アダムとその妻エバはエデンの園(歓喜または喜びの意味)で仲睦ましく暮らしていたようです。そして、エデンの園にはたくさんの木があり、多くの実をつけていたようです。創世記2:16-17には次のように記されています。「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」このように前もってアダムは警告を受けていました。しかし、創世記3章に入りますと蛇(サタン)の惑わしにより、罪が入った事実を知らされます。創世記3:1のみことばです。「蛇は女に言った。『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。』これがサタンの惑わしの第一声だったのです。サタンは巧妙でしかも狡猾です。エバはこれは推測ですが、彼女自身も気づかぬうちにサタンの罠に陥ったのかもしれません。それが、自分だけでなく夫アダムにも影響が及んでいきました。残念な罪の拡がりです。それに対して、神はアダムに声をかけられました。「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:9)エバに対しては次のことばをかけられました。「あなたはいったいなんということをしたのか。」(創世記3:13)そして、神は蛇(サタン)に宣言しています。「わたしは、おまえと女との間に、……敵意を置く。彼は、頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。(創世記3:15)彼はイエス・キリストをさし示しているといわれます。ここから、イエス・キリストによる救いの始まりが予告されているのです。神の愛を感じさせられます。

 今年も昨年以上に勝利の主イエス・キリストにより頼んでいきましょう。

私たちの罪を救ってくださるために

 

   マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21) 12月に入りますと街やお店はクリスマス一色に彩られたようになります。しかし、本当のクリスマスからは程遠いように思われます。

 

 ところで、旧約時代から救い主の誕生を待ち望み、預言の成就を確信していた人々が多くいました。イエス・キリストの養父ヨセフもその一人でした。

 

Ⅰマリヤの懐妊に困惑するヨセフ

 

 この当時、ヨセフはマリヤと婚約していましたがそれは結婚を前提としたものでした。実際の結婚生活をしてはいなくともこの婚約期間に女性に不貞があれば、厳罰に処せられる時代でもありました。ヨセフがマリヤの懐妊を知らされ、疑惑、困惑、苦悩に陥ったことでしょう。また、マリヤに対する不信感も湧き上がってきたことでしょう。それらの思いを超えて彼女を何とか内密に去らせようと決意したと聖書に記されております。

 

Ⅱ主のみ使いが夢に現われる

 

 ヨセフの夢の中に主の使いが現われ、マリヤの懐妊の出来事について告げられました。マタイ1:2021「~主の使いが夢に現われて言った。『恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、自分の民をその罪から救ってくださる方です。』」この知らせは、ヨセフにとって驚き、衝撃の事実だったに違いありません。旧約時代から預言されていた救い主の誕生が自分の妻の胎に宿っているとは……。

 

Ⅲみことばに従うヨセフ

 

 ヨセフは夢で告げられた主の使いのことばを受け入れます。聖書には淡々と事実のみ記されております。彼の心中はどうだったでしょうか?葛藤、戦い、迷い等あったことでしょう。その後の彼らに対する中傷などすべてを受け入、覚悟したともいえます。しかし、主の助けによってそれらを乗り越えられていった時、きっと二人は平安に満たされたことでしょう。

 

 クリスマスおめでとうございます。

 

圧倒的な勝利の主

 112日~4日まで教団主催で開催された「ルター500聖会」の講師が語っていたことばが印象に残っています。クリスチャンとは「自分で自分を救うことから解放された人々」という表現をされていました。 

  マルチン・ルターを通してなされた宗教改革以前は、神の救いに関して次のように教えられていました。神の救いに与かるためには、神に受け入れられる善行の功績が必要とされていました。それに対してルターは、聖書から福音の再発見をしました。三つの「のみ」がありますが、特に信仰のみ(信仰義認)は先述の「自分で自分を救うことから解放された人々」に合致します。神の恵みに感謝します。

  では、恵みによって救われた者達の信仰の歩みはいつも勝利に導かれているでしょうか?残念ながらそうではないでしょう。Ⅰヨハネ5:4-5には次のように記されています。

「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つとはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」イエス・キリストご自身は罪と死と悪魔から勝利されたお方なのです。クリスチャンはこの圧倒的な勝利の主ご自身を内住しているのです。何と心強く、平安に満たされていることでしょう。しかし、現実の歩みの中で主を見失しないがちになります。その時はもう一度、いや何度でも悔い改めつつ、十字架の主を見上げることです。その時、「あなたの罪は赦されたのです。」という赦しの宣言のことばを聞くことでしょう。そして、再び信仰の歩みを進めていくのです。

 私たちは信仰生活をあまり難しくしないことが大切です。そして、継続です。継続は力なりです。

 そのためにも私たちはもっと切実に主に叫び求めることが必要ではないでしょうか?そして、圧倒的な勝利の主によりすがって歩むことです。

 いつか信仰生活の歩みを振り返る時、そこには恵みの足跡がくつきりと残っているのを見出すことでしょう。

ただ恵みによって

 今年はルター宗教改革500周年の記念すべき年です。教団主催の聖会も11月2日~4日まで行なわれます。これは決して単なる記念行事ではありません。当然、そのことは皆様もご存じの事と思います。自分自身の信仰の原点に立ち返り、それを再確認する時とさせていただきましょう。 
  さて、宗教改革の特色の一つとして信仰義認があります。ルターがローマ・カトリックの修道士であった時代、不思議な事がありました。それは、神の救いに与かるためには、イエス・キリストを信じるだけでなく、同時に善行を積むことが求められていました。ルターは真剣に厳格に善行を積むことを必死に行なったようです。しかし、どれほど熱心に真剣に善行を行なっても、心に平安が与えられなかったのです。これはおかしい、何か違うと彼は探求していきました。
  そして、ついにその答えを聖書から発見したのです。福音の再発見とでも言うでしょうか。 次のみことばが思い出されます。ローマ3:23「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」と書かれてあります。私たちは神の視点からすれば皆、罪人です。罪の根があります。だから、ルターがどんなに熱心に真剣に善行を積んでも平安を得ることが出来なかったのは納得出来ます。時至って、神は罪に汚染されている私たちを省みてくださいました。そして、私たちの罪の身代わりとして主を十字架刑で処罰されました。そして、主は3日目に蘇りました。これは、神の側で現わされた先行の愛なのです。私たちが弱くて、罪深くて、いや、神に敵対していた時から示された先行の愛です。愛は言葉だけではなく、結果として行動も伴います。このイエス・キリストをもう一度、心新たにさせられて信じ直す時とさせていただこうではありませんか。それが、ルター500周年の記念の年として相応しいさわしい過ごし方ではないでしょうか。
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」ローマ3:24

全く帰られたサマリヤの女

 暑い日々も終わりに近づきつつあります。教会では9/2(土)、9/3(日)に特別伝道集会を計画しております。そのことに関連してふと、改めて証しとは何か考えさせられました。聖書には主の証し人が次々と登場して来ます。その一人が、イエス・キリストと出会って真の悔い改めに導かれ、全く変えられたサマリヤの女を思い起こします。彼女は証の見本のような人物ではないでしょうか? 

 彼女が登場するのはヨハネ44節以降です。ヨハネ4:7では次のように記されています。「ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは『わたしに水を飲ませてください』と言われた。」これがイエス・キリストとサマリヤの女との最初の出会いでした。それは不思議な出会いでした。当時、聖書に記されている通り、ユダヤ人はサマリヤ人とは交流しませんでした。(歴史上の変遷を経て)さらに、当時、ユダヤ人男性がサマリヤ女性に声を掛ける等あり得ないことでした。イエス・キリストとの会話から身体の渇きから霊の飢え渇きへ話題が移っていきました。彼女は次のように主に語っております。15節「女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』」これに対して「イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』」これが彼女の闇の部分、罪だったのです。そのところを主は鋭く突いてきました。しかし、彼女は苦しくても、辛くてもそこから逃げませんでした。ここから、真の悔い改めが始まったのです。彼女は5回も結婚しながら破綻し、現在は同棲中という自堕落な生活の中にあったのです。しかし、心の深い部分で呻き、空しさ、満たされない思いがあったのでしょう。それが、イエス・キリストとの出会いによって全く変えられたのです。人目を忍んで隠れた生活をしていた者が人々の中に入っていったのです。ここに真の証し者が誕生しました。

イエス・キリストの恵みが彼女を変えたのです。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5

祈りの人ネヘミヤ

  今年は6月の第4週から7月に亘ってネヘミヤ記を取り上げています。 

  彼の特徴は一言で言うなら、祈りの人であることが挙げられると思います。ネヘミヤの名前は「主は慰めたもう」の意味があるそうです。彼は他の人々を慰める人でもあったのでしょう。

  ところで、ネヘミヤ記が書かれた当時、彼は捕囚の民として異国ペルシャにいました。そこで、王の献酌官の仕事をしていました。それは、王の食事の毒味係です。これは王との信頼関係が確立されてこそなされる働きです。

  そのような時、一つの報告が舞い込んできました。それは、祖国エルサレムの城壁が崩され、門は火で焼き払われたということです。ネヘミヤは心配のあまり、性急に行動に移したでしょうか?そうだはありません。彼は約34カ月間祈りました。祈りながら王の前に出る機会を待ち望んでいました。

  ネヘミヤ21節「アルタシャスタ王の第二十年のニサンの月に、」と

書かれています。これはBC445年太

陽暦の3月から4月に相当するようで

す。ついに王に自分の願いを申し出る

機会が与えられました。彼の思いを推

測すると、大変、緊張と勇気のいるこ

とだったでしょう。幸いなことに王の

側からネヘミヤに語りかけています。

ネヘミヤ記22節「……きっと心に

悲しみがあるに違いない。」それに対して彼は答えています。5節「私をユダの地、私の先祖の墓のある町へ送って、それを再建させてください。」6節「旅はどのくらいかかるのか。いつ戻って来るのか。」驚くべきことにネヘミヤを願い通り祖国に送り出してくれると言うのです。ここに、彼が祈った答えを見出すことが出来ます。考えてみますと彼は日常生活で祈りに取り囲まれていたのでしょう。私達も順境の時も逆境の時も感謝をもって祈り続ける人になりたいものです。そして、私達も祈りの祭壇を築き直し、あらゆる事柄に祈りを通して主に期待していける者とさせていただきましょう。

 お一人お一人の歩みが祝福されますように。